Archive for 2007年7月

東京生活

 短期の転勤も半ばになった。先週はかなり忙しい思いをした。昨日も休日出勤。 17時過ぎに店じまい。夕方から実家に戻ってきた。昨日は隅田川花火大会。上野は浅草方面に花火大会に向かう人たちがぞろぞろと歩いていた。来週は淀川の花火大会だなあと思いながら行列を眺めていた。
 昼飯抜きで仕事をしていたため小腹がすいた。上野駅に着く直前いつも行列のラーメン屋がガラ空き、ほとんど衝動的に入ってしまった。チケットを買いつけ麺を頼んだそれもチャーシュー麺。
 店内にこの店の母体となった東池袋の店についての雑誌の記事が至る所に掲示されていた。「フーン。そういう歴史があるんだ・・」と感心してしまった。10分近くたって麺が出てきた。結構時間が掛かる。
 掲示してあった記事につけ麺だと見劣りするから通常より2割り増しの麺でしかも太麺、かなりのボリュームと書いてあった。確かに見た目は小腹満たすのにちょうどよさげな量に見えた。しかしいざ食べだすと半分ぐらいで腹が苦しくなってきた。そしてチャーシューが結構ある。普通の麺にすればよかったと後悔した。しかも味が今まで経験したこのない酢が入ったような酸っぱいスープこれか結構苦しさを誘う。結局小腹がしっかりした夕飯になってしまった。こんなことをしていたらやせるどころかますます太ってしまう。一寸後悔した晩餐だった。
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お礼!

 東京に単身赴任になって早2週間今週末も大阪に帰ってきた。何を隠そう今日はゴルフ。前回とほぼ同じメンバーで京都南部のゴルフ場へ。
前回は燦々たる物であいた口がふさがらなかったが今日は絶好調今までの中でのベストスコア。とはいってもかなり低いレベルだが・・・・・
 ドライバーも真っ直ぐに飛び、ショートホールではニアピンの嵐。帰りに交通事故にでも遭うのではとみんなに心配されるほど今までが嘘のように良かった。あくまでも繰り返すが私はかなり低いレベルで物を言っている。
 しかし何故急にスコアが伸びたのか・・・・
実は今週の月曜日、東京に行く前にいつもの練習場で練習をしていた。全然ダメ。隣にボールを飛ばす始末。見かねた隣のオジサンがコーチをしてくれた。いわゆるお節介オヤジと言うような人ではなかった。ポイントを一つだけ言ってくれる。それに対して親切に教えてくれる。私も人に教えてもらえるチャンスとばかり食いついて教えてもらった。そしておじさんは練習に対する考え方も教えてくれた。
「この練習場ではボールを飛ばしに来たらダメ。あくまでもフォームをチェックする。」
というと軽く両足を揃えて体の回転でスイングして
「ほら、極端な話これでもボールは飛ぶ」と、おしえてくれた。昔、剣道で先生にしごかれた事を思い出した。
「人に教えてもらうのはいくつになっても良いですねえ。」
そのおかげでイメージ一新。今日の朝一のホールは大崩をしたけどそれ以外はパー2回にダブルボキーを数回と、球に当てるのでは無くてあくまでもスイングをそれも体を回転させるだけを注意して今日はコースを回った。驚くほど空振りがゼロになりチョロも2回。逆に当たり過ぎてオーバーが数回ありスコアが伸びなかった。みんな私がへたくそなのを知っているからえらく褒めてもらった。キャディーさんにもお世辞で言ってもらっているのは解っているけど「上手ですねえ~」と言われれば気分がいい。
 見ず知らずのおじさんありがとうございました。 また練習場でお会いしたらちゃんとお礼を言わないとね!

激動の連休

 金曜日の夜は実家に帰宅。12年ぶりの東京の職場からの帰宅。実家は東京といっても東大和市というかなり都心から離れたところにある。実家にすんでいたころは先祖代々、一族郎党がここに多くすんでいるから何の疑念もなく通勤していたが、いまの大阪の家は梅田から数キロ、20分。職場も30分掛からない。実家に帰るというのに途中でいやになってしまった。ついつい上野から田端に来たあたりで
「ああああ、大阪だったらもう着いているなあ~」と思ってしまった。高田馬場で1日分、鷺宮で次の日の行きの分、上石神井で2日分、田無、小平、萩山で3日分。東大和市で4日分。うーん立川周りのほうが良かったかな?と、ぶつぶつモード。その日はおとなしく夕飯食べて睡眠。
 次の日午後から帰阪することにした。旧自分の部屋でごろごろしていたら弟家族がやってきた。甥っ子を撮影。15分ほどで帰宅していった。昼前に家を出て大阪へ。さすがに台風が来ているだけあって大阪はものすごく蒸し暑かった。郵便物の不在通知が入っていた。残念ながらタッチの差で19時以降の受付になってしまった。まあいいやとおもい19時から21時配達の受付を電話で自動登録。ところが21時を過ぎても郵便局は来なかった。21時過ぎに台風じゃ仕方がないとおもいコンビニに夕飯を買いにいった。しかし風も雨も普通の日と変わらなかった。
 夜に台風は紀伊半島の南端を通過していた。天気は曇りだった。昨日来なかった郵便物を取りに郵便局へ。会社に出勤する前に立ち寄った。そしたら当たり前のように郵便局員が持ってきた。「?」
局員に昨日配達依頼したのに来なかった。なぜか聞いたのに
「すいません」
何を言っても
「すいません」
つい「てめえ!すいませんじゃねえだろ!」と怒ってしまった。
人が待っていたのに・・・・台風で配達控えていたとか手違えでしたとか理由を聞きたかったのに。
面倒なやつが来たぐらいの表情をしてわびれもせず無味乾燥に「すいません」完全に人を馬鹿にしていた。
そういわれてみればいつかはいってやろうと思っていた、妻のカメラをインターネット販売で買い到着日に一日中待っていたのに郵便局は呼び鈴を鳴らすこともなく「精密機器 取り扱い注意 湿気厳禁」とまで書かれた荷物をいきなり宅配ボックスに入れて帰っていったことがあった。頭にきたからそのことも言ってやり
「責任者に報告しておけ!」と言って帰った。本当に気分が悪かった。
 仕事を済ませて自宅に帰った。くつろいでいたところに郵便局から電話。
えらそうに「よどがわゆうびんきょくです」誰とも名乗らない。
「何度も電話したのですが不在だったのでおそくなってしまいました。」というとなにやらゴタクを並べて「すいません」
すごく腹がたった。
「わざわざ電話したのに不在」といいたかったらしい。
「すいませんね。郵便局さんが配達してくれても、電話してくれても不在で。」いやみをいってやった。あとはあやまているんだから許せとばかりの口調。
最後に言ってやった。「すいませんでした。お役人さん!」
本当に腹が立った。今まで郵便局といえばうちの親戚にも数名その関係者がいるけど「まじめ」というイメージしかなかったが名指しをするけど「大阪の淀川郵便局は駄目だね。特に我が家に配達に来ているのとその上司はホント馬鹿だと思った。神崎川でもどぶさらいしたら郵便物でも出てくるんじゃないのかと思った。
しかし人が妻のために買ったカメラしかも「精密機器」とまでシールが貼ってあって「カメラ」って明記してあるのをいきなり宅配ボックスに入れて帰り妻が抗議をしても詫び1枚。別に頭下げろじゃなくてちゃんと運んでもらいたいだけ。私も昔輸送関係の仕事を学生時代にしていたけど、荷物は人より重いと思えとか、お客さんと約束したら絶対に守れ、運んでいるのは貨物じゃない人の心だ!と厳しく言われていた。どんなにムカつく客でも耐えてきた。それだけに「淀川郵便局のお役所的ないい加減さには本当に頭にきた!」これまでも郵便物が変な届き方をしていたから気にはなっていたが・・・・・。郵便局は他の民間の宅配業者と違い輸送上の事故があっても免許だか許可だかの取り消しがないからこんなだと思う。
 むかし、私の祖母が庭で倒れていたのを助けてくれて畑にいる叔母に祖母の異変を知らせてくれたのが郵便局配達の人だった。おんなじ郵便局員でもなんでこんなに違うのだろう。まじめな人が多くいるのに一握りの馬鹿のせいでこんななるなんて残念な話。
興奮して話が大脱線。休日の話はまた今度。

単身赴任

 義父の他界が生々しくのこる今週水曜日より私は東京に単身赴任。会社の重大な危機を回避するために赴任してきた。と、かなり大袈裟・・・・
水曜、昨日木曜と昔懐かしい人たちとのみに行った。水曜日はかつての課長(直属の上司では無い)。昨日は先日、大阪で飲んだI君。軽く飲むはずがついつい盛り上がり気がつけば私の宿泊するウイークリーマンションで飲んでいた。台東区役所東側の韓国料理の店で閉店だというのに飲みまくっていた。開店したばかりとのことたいして客もいなかったが料理はものすごくおいしかった。それで余計に盛り上がってしまったんだねえ・・・・・・。久しぶりの東京での仕事。けちがつかないように飲んでばかりいないでちゃんと仕事しないと・・・・・・

7月7日と言う日

 今日は言わずと知れた7月7日。七夕の日と言う事になる。
ただ、私の人生において7月7日は大きな印象の残る日である。
平成7年7月7日、いまから12年前私は東京都民から大阪府民になった。私の親族は大半が地元に居るため親戚中でも大きな話題を呼んだ。戦前に京都に丁稚に来ていた人が1名居たらしいがそれ以来。本家の叔父は「まあ、昔みたいに兵隊で外地に行くわけじゃないからなあ~」と、言っていたのが今でも印象に残る。戦争に行った祖父の兄弟(本家の叔父と年が変わらない。昔は同じ年の叔父と甥の関係があったんだよね)はシベリアに抑留されたけど苦労の末、無事復員できた。私のほうはそれ以来大阪で結婚をして家も買った。祖父の兄弟と違い復員は無さそうだ。
 そして本日、義父(妻の父)が他界した。介護施設と病院の生活を足掛け8年の末の本日。地元に居たとは言え結局帰宅は無言になってしまった。最後には家族全員がそろいそういう意味ではしっかりとした往生が出来たと思う。倒れた介護施設も立派な施設で職員さんも人のよさそうな人ばかりで義母や妻も感謝をしていた。息を引き取った病院建物がしょぼかったけど、脳神経の外科としては結構立派な実績のあるところだった。最後を看取った医師や看護婦さんも仕事とは言え何か辛そうだった。「ああ、医者にもこういう人が居たのだ!」とおもった。最後に出てきたのがおかしな奴だったらこっちが成仏できない。正直人間の最後を看取ったのは生まれて初めて。祖父や祖母はみんな寝ている間に息を引き取っていたから。意識が無かったとはいえ苦しそうにしていた義父は見るに耐えなかったが、介護施設の方で奇麗にしていただいていたせいか肌がつるつるしているように見えた。何か赤ん坊に戻って甘えているようにも見えた。医師の死亡宣告後、最後に義父の肩を撫でたがまだ暖かく寝ているようだった。